福沢諭吉旧居に行ってみました
こんにちは、グレースホームです。
今日は、中津市を代表する偉人「福沢諭吉」の旧居に行ってきた時のレポートです。
2024年7月から紙幣が新しいデザインになり、福沢諭吉というよりも渋沢栄一の話題の方が多いかもしれませんが、福沢諭吉が中津市を代表する偉人ということには変わりありません。
福沢諭吉の人生
福沢諭吉は1834年12月12日、中津藩の下級武士の家に生まれます。
子どもの頃から勉強が好きで、家の手伝いをしながら、塾で漢文を習っていました。19歳の時には実家を出て長崎で蘭学を学びます。
蘭学を学んだ理由として、幕府は黒船が来航してからオランダ語が理解できる人材を育成しようとしていたからと言われています。
長崎でオランダ語を勉強していた諭吉ですが、当時外国人でにぎわっていた横浜を訪れた際、オランダ語が一切通じず、オランダ語よりも英語が主流であることを知ります。
すると今度は、世界で発信される有益な情報を真っ先に手に入れるために英語の習得に意欲を燃やしました。
大政奉還の後に幕府が廃止されると、ついに明治時代が幕を明けます。
諭吉は新政府から官職に就くように勧められますが、それを断り教育者の道を選びます。
諭吉が教育者の道を選んだのは、「日本が真に生まれ変わり、西洋諸国と対等に渡り合っていくためには、国民それぞれが独立し、自分で道を切り開かなければならない」と思っての選択だったそうです。
そして1872年にあの有名な「学問のすゝめ」を発表します。
その後も次々と著書を出版し、明治時代の人々にとって新時代の指針となるものを発信していきました。
学問のすゝめは海賊版まで出たほどの人気だった
諭吉が書いた学問のすゝめは、1872年に初編が刊行された後たちまち評判になり、シリーズ化されました。
その後4年間で17編までが出版されています。
あまりの売れ行きから海賊版まで出たほどで、これまで出版された全ての部数を合わせると340万部の大ベストセラーになりました。
当時の人口は約3500万人と言われているので、学問のすゝめがどれほどの人気だったかが分かりますね。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は有名なフレーズですよね。
その続きとして「しかしながら実際の社会には明らかな格差がある。それを埋めるために勉強が必要なのだ」とも説いています。
身分制度がなくなり、平等になったからこそどれだけ知識があるかで人生に差が付くということを諭吉は言いたかったのでしょう。
諭吉が守りたかった景色
大分県中津市の観光スポットの一つに「青の洞門」があります。
春には「青」に掛けてネモフィラ畑の景色も併せて楽しめるので多くの観光客でにぎわっています。
実はこの青の洞門を含む「競秀峰」は福沢諭吉が景観保護のために自分の資産を投じて3年がかりで一帯を買収して保護したと言われています。
諭吉は幼い頃母に連れられて、競秀峰の景色を見ていたらしいので、思い出の土地が売りに出ていると知って居ても立っても居られなかったのでしょう。
福沢諭吉旧居
福沢諭吉は19歳までこの場所で過ごしたと言われています。
当時諭吉が使っていた家がそのまま再現されており、家の中に入って見ることができます。
また、旧居の横には記念館も併設されていて、学問のすゝめの初編の初版本や2編~17編、手紙や写真、1万円札の1号券など、貴重な資料が展示してあります。
記念館の中は撮影禁止ですが、今回は特別な許可をもらって一部撮影OKでしたので、続きはYouTubeをチェックしてみてください。
まとめ
今日は福沢諭吉に関する旅のレポートをお送りしました。
撮影することで福沢諭吉の人生や守りたかった景色などを知ることができ、現在の慶応義塾大学の創設者の生き方を調べていくうちになんだか自分も頭が良くなったような気がしました笑
中津市には今日ご紹介した競秀峰の他にも、羅漢寺や一目八景など本耶馬渓や深耶馬渓の守りたい景色が沢山あるので、また機会があったらご紹介したいと思います。
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